映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」

SATCのミランダ(皮肉屋の弁護士である)を演じていたシンシア・ニクソンがエミリをやると知り、彼女が自分の持っていた「詩人 エミリ・ディキンスン」のイメージとあまりにもかけ離れていたため不安に思っていた。

 

ディキンスンを初めて知ったのは「エミリー」というバーバラ・クーニーの絵本でだったと思う。江國香織の「絵本を抱えて 部屋のすみへ」で紹介されていたから。

 

エミリー

エミリー

 

 

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

 

 

内気で、繊細すぎて、とても外の世界では生きていけない引きこもり。それが私のディキンスンに対する印象だったので、皮肉屋で、攻撃的な口調で話す詩人にがっかりさせられた。これくらい自己主張の激しい人だったら、引きこもりになる必要などないのではなかろうか?それとも、この時代の女性は、これほどの才気があっても結婚以外の道はなかったのだろうか。

 

劇中で、ディキンスンの詩に感銘を受けて訪ねてきた青年がいた。繊細で美しい詩を読んで、きっと素晴らしい人に違いないと会いに来たのに、容姿に自信のないエミリは、顔も見せずに冷たく追い返す。彼もきっとこう思ったことだろう。作品だけを見ていればよかった、と。

 

監督のテレンス・デイヴィスはイギリス人の男性。男性なのに、この時代の女性の不自由さ、苦しさをよく理解し、描いている、と評価している人がいたけれど。私にはまるで、容姿コンプレックスのヒステリー女に貶められているように感じられて不快だった。

 

少し検索したところによると、今まで内気な修道女のようにとらえられていたディキンスン像が、実はそうではなかったのではないか、という研究者による論文もあるらしい。詩に詠まれている恋情も、実体験に基づくものではなく、彼女の妄想によるものなのではないか、などとも……。

 

そんなの、ほっといてくれ、って感じだ。作品だけを見ていればいいのに、どうして色々と掘り返して、わざわざ作家の尊厳を傷付けるのだろう。

 

実は、先日パリへ行く飛行機の中で "Cezanne et moi"(日本では「セザンヌと過ごした時間」というタイトルで上映されているらしい)という映画を見たのだが、描かれていたセザンヌがなかなかの嫌な奴だったため、オルセー美術館セザンヌ展を見た時に、なんだかな、という気持ちになってしまったのだった。

 

どんな人生だったかよりも、作品そのものから受ける印象の方が重要じゃないか。

 

ディキンスンくらいあまり日本では知られてない詩人となると、多くの人にとって、この映画での姿が彼女の第一印象になってしまうのかと思うと、残念なでならない。これを機にぜひとも詩集を手にとって、純粋に詩そのものを味わってもらいたい。